錯聴について
視覚と同様、聴覚にもさまざまな錯覚があります。それを錯聴(auditory illusion)といいます。周波数の高い音が低く聞こえたり、右にある音が左に聞こえたり、同じ音に対する聞こえ方が変化したり、存在していない音が聞こえたり、いろいろと不思議なことが起こります。あるものは視覚の錯覚に似ていたり、しかし聴覚独特の部分もあったりします。イリュージョンフォーラムのデモで錯視と錯聴をあれこれ比べてみるのもおもしろいでしょう。
錯聴は私たちにいろいろなことを教えてくれます。まず、私たちが知覚している音の世界は、耳に入ってくる音そのものではないということ。しかし、これは必ずしも、私たちの聴覚システムが不正確であることを意味しません。むしろ逆で、そこにあらわれているのは、聞きたい音やそれを妨害する音が混在する日常の環境で、安定して効率よく音を聞き取るための数々の巧妙なしくみです。このようなしくみが無自覚のうちに働いているからこそ、耳に入ってくる音「以上の」ものが聞こえるのです。
裏を返せば、「耳」だけでは音は聞こえないということです。耳はあくまでも聴覚システムの入り口であって、その後に続く脳での膨大な情報処理が、錯聴の背後に見え隠れする巧妙なしくみを支えています。錯聴を詳しく分析すれば、脳での音の処理メカニズムについての手がかりが得られます。
ところで、こんなに多種多様な錯聴があるのに、なぜ一般には錯視ほど知られていないのでしょうか。ひとつには、音は絵のように紙に書いて眺めることができないので、音の特性と聞こえ方とのずれが気づかれにくかったからかもしれません。しかし、音に対する関心は人類の文化発祥以来とも言えるもので、あえて錯聴と名付けなくとも、知覚特性を巧妙に利用した音の提示法はさまざまな分野で開発され、利用されてきました。例えばバロック音楽では、一度に複数の音を出せない楽器で、異なった音をすばやく交互に鳴らすことで、あたかも複数の旋律が同時に奏でられているように錯覚させる手法(音の流れの分凝)が使われました。オーディオも、限られたチャンネル(通常のステレオなら2チャンネル)による音の提示によって、あたかもその場で演奏されているような感覚をいかにして生じさせるかという錯覚の探求といえるかもしれません。今後さらに巧妙な錯聴の使い方が開発されれば、音に関わる芸術や技術はますます豊かになっていくでしょう。
錯聴の研究は、1960年代から70年代にかけて第一次黄金期を迎えました。イリュージョンフォーラムでとりあげたいくつかの現象、例えば連続聴効果や音階の錯覚、反復の変形などは、 この時代に発見されたものです。1990年代には、このような現象をより定量的に把握したり、計算モデルで説明したりしようという試みが盛んになりました。2000年代に入ると、 聴覚に関わる脳のメカニズムを解明する研究の中で、錯聴も格好の素材として取り上げられるようになりました。現在も日々新しい研究成果が報告されています。イリュージョンフォーラムに来場されたみなさまの中からも、新たな発見が生まれるかもしれません。
もっと知りたい人のために
錯覚や脳のしくみについてより深く知りたい皆さんへ、参考になる本をご紹介いたします。このリストは、今皆さんに来ていただいている「イリュージョンフォーラム」の作成に関わった関係者が執筆した本だけを載せておりますので、ごく一部の紹介にとどまっています。その点は、なにとぞご容赦ください。
- 「脳から心へ」 宮下保司・下條信輔編 岩波書店 1995年
- 「脳科学大事典」 外山敬介編 朝倉書店 2000年
- 「認知科学辞典」 日本認知科学会編 共立出版 2002年
- 「新・心理学の基礎知識」 中島義明・繁桝算男・箱田祐司編 有斐閣 2005年
- 「脳の計算機構―ボトムアップ・トップダウンのダイナミクス―」 銅谷賢治・五味裕章・阪口豊・川人光男編 朝倉書店 2005年
- 「新編 感覚・知覚心理学ハンドブック Part2」 大山正・今井省吾・和氣典二・菊地正 編 誠信書房 2007年
- 「イラストレクチャー 認知神経科学」 村上郁也編 オーム社 2010年
- 「知覚心理学」 北岡明佳編 ミネルヴァ書房 2011年
- 「音のイリュージョン ― 知覚を生み出す脳の戦略 ―」 柏野牧夫著 岩波書店 2010年
- 「空耳の科学―だまされる耳、聞き分ける脳」 柏野牧夫著 ヤマハミュージックメディア 2012年
- 「ソーシャル・マジョリティ研究 -コミュニケーション学の共同創造-」 綾屋紗月 編著 金子書房 2018年
- 「音響学講座5 聴覚」 古川茂人編著 コロナ社 2021年